株式会社吉川車体製作所の前身は、江戸時代にまでさかのぼります。
越後長岡藩の大名である第3代藩主 牧野忠辰(1665~1694年)のころより人力車や荷車の制作に携わり、果ては大砲の支車体の制作にまで命が下るようになり、“長岡藩おかかえの車屋さん”と呼ばれ親しまれていました。

明治維新以後は、日本国有鉄道の雪国用D51除雪車輌の除雪そりなどを製作し、その技術の高さには定評があったと伝えられております。

特注霊柩車

<長岡市役所に納めた特注霊柩車>

そして、大正時代には、長岡市役所に納めた特注霊柩車などの製作があり、現代に通ずる特殊車輌をすでにこのころから手掛けていたのです。

この霊柩車はフォード車を改造して製作されておりますが、当時は鉄が不足していた時代ですので、フレーム部分は木製、サイドボデーは手彫りで蓮の花や鳳凰が彫りだされ、なんと金粉塗装が施されておりました。

この完成された格式のあるデザインは当時、人目をひき、注目され、絶賛されたということです。

また一方で、長岡は雪深い土地でありますので、昔からスキーが盛んです。当時、世界初と思われる合板製スキーも開発いたしました。このスキーは、【YSKD】の商品名で市販されました。また、スキーのエッジ等も開発。
スキー製品に関してはさまざまな商品を手掛けていたようです。ちなみに、当時製作したスキーは、長岡市の歴史博物館から展示を依頼されました。

そして、第二次世界大戦に突入。当社は軍需工場となります。『長岡車輌株式会社』の名称に変更を余儀なくされ、軍用車輌を製作。トラックボデーも多数手がけました。これは主に株式会社日本通運のトラックでした。この当時の工員は、学徒動員なども含め、多いときでは100人もの臨戦体制にてお国に貢献いたしました。

そして、戦後まもなく、南極探検雪上車の第一号試作品を製作。大原鉄工所(現在新潟県最大の雪上車の製造工場)と何度も何度も検討が繰り返されての製作でした。現在の雪上車のモデルともなった初期型雪上車です。

南極探検雪上車

<初期型雪上車>

そして昭和40年、株式会社 吉川車体製作所と正式に登録。自動車車体製作を主に、自動車鈑金塗装、整備、車検と幅広いニーズに答え、地域の皆さまに愛され、支えられて歩んでまいりました。

現在、匠の技とも言われるほどの高い鈑金技術、塗装技術、また国産自動車から輸入車に至るまでオールマイティーに対応できる優れた整備技術、もちろん車検にも対応します。

ラリーカー

<ラリーカー>

このほかに、公認ラリーカー、エコカーへの改造などの特殊車輌加工製作、特殊コーティングなども専門的に行い、トヨタ系列、日産系列、ホンダ系列等各ディーラーの指定工場としても信頼を受け、各損害保険会社の保険事故にも対応しております。

2015年、創業50周年の節目のときを迎え、より一層の各種技術の研鑽と、支えて下さるお客さまへのサービスの向上をモットーに社員一同、未来に大きく羽ばたける工場として思いを新たに邁進している次第であります。